「相沢、時間だ。体育だぞ」

二時間目の授業が終了しても、祐無はまだ目を覚ましていなかった。
時間になったら起こす約束をしていたので、今は潤が起こそうとしているところだ。

「おい、起きろって。早くしないと遅刻するぞ」
「ん……なに?」

 ゆさゆさと肩を揺すられて、祐無はゆっくりと瞳を開いた。
 気だるそうに上体を起こしながら、首を傾げている。

「起きたな。起きたんだったら着替えるぞ、次は体育だ」
「ぅえ……?」

 潤の言葉を理解するのにしばらくの時間をかけてから、きょろきょろと辺りを見回す。
 教室では何人かの男子がジャージ姿に変わっており、女子はすでに更衣室に移動してしまっていた。
 この学校では、体育の着替えは男子は教室で、女子は専用の更衣室ですることになっている。

「あ……ごめん、ありがとう」
「礼なんていいから、さっさと着替えろ。遅刻するぞ?」
「うん」

 当然、祐一としてこの学校に通っている祐無は、男子と一緒に教室で着替えなければならない。
 まだ一度も開けていなかった鞄からジャージの上下を取り出し、立ち上がって着替え始める。
 彼女はショーツの上にトランクスをはくという荒業でこの時間に備えているが、それでも恥ずかしさは消しきれるものではない。
 できるだけ下着が他の人たちの目に触れないように、ブレザーを脱がずにまずズボンから脱いでいく。
 そして下半身を晒したままズボンを畳んで、椅子の上に載せる。
 ジャージをはくのはそれからだった。
 ここでは祐無はできる限り、恥ずかしがらずに、しかも隠さずに着替えなければならない。
 男が男の前で着替えることを恥ずかしがってはいけないのだ。
 そうしてズボンのはき替えを済ましたところで、彼女はふと、自分を見つめる視線に気が付いた。

「どうした北川、ぼーっとして」
「あ……いや、なんでもない」
「だったら人の着替えなんかジロジロ見ずに、自分も着替えろよな。それともお前、ソッチの趣味があったのか?」
「ちげーよ馬鹿ッ! ただちょっと、寝起きの相沢って普段とちょっと違うよなって思ってただけだ」
「? そんなに違うか?」

 会話をしながら、二人はブレザーとベストを脱ぎ、上着のボタンを外し始めた。
 二人とも、その下には最初からシャツではなく体操服を着込んでいる。
 祐無はその下にサラシを巻いていて、胸を押しつぶして生活していた。
 それほど大きい方ではないので、シャツ一枚という姿でもそれで十分誤魔化せてしまうのだ。

「ああ、違うな」
「具体的にどんな風に?」
「なんて言うか……そう、可愛いんだ」
「なっ!? ……あのなぁ、そういうことは女に言ってやれよ。俺みたいな男に言ってると、言葉の価値が下がっちまうぞ」

 一瞬動揺してしまったが、すぐに素に戻って切り抜けた。
 この程度の危機ならば、週に一度は訪れている。
 祐無も最初の頃は誤魔化すのに苦労していたが、今ではもう手馴れたものだった。
 談笑を続けながらジャージを着込んで着替えを済ませ、クラスメイトの斉藤直哉に声をかけて、三人並んで廊下に出る。
 祐無にとって、今ではこの三人で行動するのが当たり前になっていた。




 体育の授業は、男子がバレー、女子がバスケだった。
 体育館を半分に分けて使っているため、全員が同時に試合ができるほどのコートはなく、半分の生徒は異性の体育を観戦している。
 男子のバレーでは、直哉がいるチームと祐無がいるチームが試合をしていた。

「こら斉藤! てめーバレー部なんだからちょっとは手加減しやがれ!!」
「フハハハハハハハハッ!! 俺は兎を仕留めるのにも全力を尽くす獅子なのだ!」
「大人げないなぁ、もう……」

 祐無のチームメイトが直哉を罵倒し、その反応を見て祐無が呆れている。
 バレー部部長である直哉のスパイクは、誰にも触れられることなく綺麗に決まり続けていた。
 その度に観戦中の女子が黄色い歓声を上げるため、直哉は有頂天になっている。
 しかしそんな中でも、例外というものはあるものである。

『相沢君負けないでーっ!!』

 本人は認めたくないのだが、祐無はその容姿・言動から、女子からの人気が高い。
 いくらスパイクを決める直哉が格好良かろうとも、祐無を応援する女子もまた存在する。
 何故かその中には、名雪だけでなく香里も含まれていた。

「覚悟しろ相沢!! このままお前の人気をボールと一緒に叩き落してやる!」
「頼む、相沢! 斉藤をこれ以上図に乗らせないでくれっ!!」
「なんでオレなんだよ……」

 当然だが、祐無はバレーの経験が皆無だった。
 それでも持ち前の運動神経だけで今の直哉を止めることくらいはできるが、悲しいかな、祐一は祐無ほど運動が得意ではない。
 全力でぶつかれば対抗できるが、祐一との差異を隠すために、祐無は全力を出す訳にはいかないのだ。
 結果として、彼女は呆れてやり過ごすしかない。
 そうしないと、熱くなってしまって全力を出してしまうから。

「頼む! お前の人気は今以上に上がりようがないけれど、これ以上斉藤の株が上がるのは我慢できないんだっ!!」
「オレにだってあいつを止められる力なんてねぇよ!!」

 叫びながら、祐無が相手側のサーブをレシーブする。
 幸い、サーバーは直哉ではないので難なく受けとめることができた。
 その後、チームメイトが祐無の頭上にトスを上げる。
 そして、そのすぐ前には直哉の姿が。
 祐無のスパイクをブロックする気満々である。

『相沢、行けーっ!!』

 祐無に期待する、複数の男子の叫び声が聴こえる。
 その中には、何故か直哉と同じチームの男子の声まで入っていた。
 ここまでされてしまっては、彼女ももうやるしかない。
 頭上に浮かぶボールに向かって、跳躍するべく膝を曲げ――――

「……勝負だ、斉藤ッ!」
「望むところだ!!」

 スパイクを打つと見せかけて、フェイント。
 祐無の足は、そのまま地を離れることはなかった。
 次の瞬間、彼女の頭上に落ちてきたボールを、軽くトス。
 ふわりと浮き上がってネットを越え、それは誰にも触れられることなく、地面に落ちた。

『うおぉぉぉぉぉぉぉ!!』
『きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』

 当然のように湧き上がる歓声。
 その中で祐無と直哉だけが、浮かない顔をして互いを見つめている。

「……やるじゃないか相沢、この俺を騙すとは」
「いや、オレなんてまだまださ」

 漫画とかでありがちな二人の会話。
 他人との関わりがまったくなかった祐無は、心のどこかで、こんな場面に憧れていたのかもしれない。

「アウトォー!」

 審判である潤が高らかに宣言すると同時に、二人は互いに背を向けた。